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ユナールの自己紹介

トルコ料理店トプカプのユナールです。

私の出身地は、南トルコ、地中海沿岸のアダナという町です。
ここは母の故郷でもありますが、私の父の故郷は、そこから150kmほど
東に行ったガジアンテップという街。 アダナもガジアンテップもトルコでは
有数の食い倒れの街で、食文化、スパイス文化の特に豊かな土地です。
食べる事が大好きな人たちに囲まれ、料理が大好きな母や叔母たちに
見守られて育った私は、つくづく幸せだと思っています。

私の父はもともと紳士服のテーラーで、晩年は縫製士を40人ほど
抱える縫製工場を営んでいました。 私は長男でしたので、父は
私が後を継ぐことを望んでいただろうと思います。
「その前に一度、世界を見てくるといい」と、かなり無理をして私を米国に
留学させてくれたのです。  それなのに私は、そんな父の期待を裏切って
しまいました。

1985年、ニューヨークの大学の語学コースを経て、経営学科の1年生に
入学したばかりの事でした。
仲の良い友人(日本人:現在の妻)が、日本に帰国するというので、
若さ故の無謀さで、親に内緒で勝手に大学を辞め、後を追って日本に
やってきてしまいました。
その頃、わたしが日本について持っていた知識といえば、三船敏郎の
「将軍」という映画ぐらいでした。
「時代劇」なのだとは知らず、あれが日本なのかと 思い込んでいました
とんでもなく異文化の、とんでもない秘境に乗り込むような決意をして、
日本航空の飛行機に乗り込んだことを、今でも懐かしく思い出します。 
その間違ったイメージは、日本に着いてすぐに覆されたわけですが。

当時、日本に住んでいたトルコ人は大使館員を含めても、たったの70人でした。
日本で結婚し、最初は日本語の学校に行ったり、義父の仕事の手伝いを
していましたが、間もなくすると故郷トルコの料理が恋しくてたまらなくなりました。
でも日本人の妻に、私の母の作るトルコ料理を作ってもらうのは言うまでもなく
無理な話でした。 当時の日本では、トルコの料理なんて全くといってよいほど
知られていませんでしたし、本屋へ出かけて、世界各地の料理を紹介する
本のコーナーを見て廻っても、トルコ料理の本など全く見当たらないほど
マイナーでしたから。
それで仕方なく、トルコから料理本を送ってもらい、自分で作るようになったのです。

その後、私が料理にのめり込んでいくのには、あまり時間はかかりませんでした。
もともと手先が器用だったこともあり、料理本にあったメニューの殆どは
わりと短期間のうちにマスターしたのですが、本と同じ作り方をしても、どうも
母が作ってくれたあの懐かしい味とはちょっと違う、という感じは否めませんでした。

もともと私の母は、近所でも有名なぐらい「料理上手なお母さん」なのです。
そこで料理をする時には、しょっちゅうトルコの母に国際電話をかけて、
いちいちレシピのコツを確認するようになりました。
母も、遠く離れた国でおふくろの味を懐かしむ息子を不憫に思ったのか、
かなり一生懸命に電話口でいろいろな事を教えてくれました。
スパイスにしても、トルコの実家から150kmほど離れた、南東トルコの
ガジアンテップにある、昔からの馴染みの店のものが、なんといっても
一番美味しいのだからと、わざわざ航空便で送ってくれたり、母自慢の
手作りの赤パプリカペーストも送ってくれたのです。

こうして私の作る料理の味は、時間を経て、一歩一歩、母の味へと
近づいていきました。
いろんな友達を家に呼んでは、料理でもてなすのが楽しくてたまらなくなり、
また彼らの褒め言葉にのせられて、さらに新たなメニューに挑戦、
の繰り返しでした。
「趣味で終わらせるのはもったいないよ」「お店をやったらいい」
と言ってくれる人は沢山いたのですが、いつかは自分でレストランを
やってみたいという夢を抱くことはあっても、やはり現実に踏み出すほど
の勇気は、まだありませんでした。

でもついに、私の背中を押したのは、母の一言でした。
トルコへ里帰りしていたとき、実家のキッチンで、私は以前母から教わった
煮込み料理を作っていました。何かアドバイスでももらおうと、深皿に
煮込みを盛り母の前に置いたのですが、それを食べた母は、一瞬びっくり
したような不思議な表情を浮かべて私を見て、こう言ったのです。
「ユナール あんた、わたしを超えちゃったわよ」
それは、その後に自分の進む道を決定づけてくれた言葉でした。

1993年に東京、北青山にトルコ料理店トプカプをオープンしました。
本当に小さな店です。それでも自己資金を全部つぎ込んで、あとは当面
の運転資金すらもなく、一度でも赤字を出せばすぐに潰れるしかないような
危なっかしいスタートでした。
経営も全くの素人でしたから、よくやってこれたものだと思います。
青山界隈の皆さんが、口コミで支えてくださったおかげです。
本当に感謝しています。
それにしても、自分の日本での生活が、すでにトルコで過ごした時間よりも
永くなっていることを思うと、その時の過ぎる早さに驚くばかりです。
結婚から3年後に生まれた息子も今ではトプカプを引き継いでくれるまでになりました。

トルコの父は、2000年の夏に他界しました。
父には親不孝をしてしまい、心残りも沢山ありますが、それでも私が
レストランをオープンした時には、「自分の息子が外国で飲食業をやるなんてな。
人生はおもしろいな」 と楽しそうに言っていたのが、せめてもの救いです。
父は、自身よりも常に他者の気持ちを考える優しい人でした。

2007年には、千代田区丸の内に出店の機会を頂き、念願の2号店をオープンし
ました。 今後とも、更なる美味しさと感動を、トプカプのキッチンからテーブルに
運び、皆様には心の底から晩餐を楽しんでいただけるよう、
スタッフ一同、精一杯頑張ってまいります。

これからもトプカプをよろしくお願いいたします。


株式会社トプカプダイニング

バスマジェ・ユナールは2014年、肺癌の為、他界いたしました。
現在は、息子のバスマジェ雅人が2代目として(株)トプカプダイニングを引き継ぎ
変わらずに頑張っております。
創業者ユナールが我々に遺してくれた美味しい料理の数々を
より多くの日本の方々に楽しみ親しんで頂けるよう、
トプカプは歩み続けます。
今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。


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