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エルトゥールル号と冷たい海

僕のトルコの実家から車で1時間半ぐらいのところに、メルシンという美しい港町がある。
街にはヤシの木がたくさんあって、キプロス行きのフェリー港もあるので
よく子供のころから船を観に連れていってもらった。

メルシンの海辺には、大きくて立派な慰霊碑がある。エルトゥールル号という船が昔、遭難して、
なくなった沢山の人たちのための慰霊碑だという事は、子供のころから知っていたが、
それが日本と大きく関わりがある事を知ったのは、高校生の頃だっただろうか。

1889年、当時のオスマントルコ帝国は、使節団を日本に送った。
明治天皇に皇帝新書を進呈し、帰国のため、使節団を乗せたエルトゥールル号は
横浜港を出港したのだが、台風によって、沈没し、600名近くの犠牲者が出たそうだ。
この時、流れ着いた一部の生存者たちを手厚く介護し、さまざまな援助をしてくれたのが
和歌山県串本町の方たちであった。
日本とトルコ両国は、この不幸な事故を弔うため、そして両国の温かい友好の証しとして、
串本町とメルシン市に同じ慰霊碑を建設した。
こうした歴史的な出来事が、のちのイラン・イラク戦争でのトルコ航空による
「在イラン日本駐在員救出」へと繋がった話は、色々なメディアによってすでに
報道されている通りなので、書くのは省きます。


僕が、子供の頃から何度も目にしていたあの立派な慰霊碑。それと全く同じ物を
和歌山県串本町で目にしたのは今から20年ぐらい前のことだ。

心の中に熱いものがこみ上げてきて、何故か涙が出そうになったのを覚えている。
ここへ、トルコ人たちが流れ着いたのか・・・。
今もまだ海底で眠るその艦体と共に、この遠い地を訪れた彼らは、
どんな気持ちだったのだろう。

しかし、実はその時、僕にはゆっくりと感慨にふけっている暇がなかった。
ぼくがこの地を訪れたわけは、当時、超人気番組だった「なるほどザ・ワールド」という番組から
エルトゥールル号遭難事件の再現VTRを作るので、トルコ人船乗りの役を演じて欲しい
との依頼を受けての事だった。

出演したトルコ人は、僕と、大阪に住んでいるというトルコ人の2人。
本当は使節団なのだから、もっと人数を集めたかったそうだが
当時は、日本に住んでいる数少ないトルコ人を探し出すだけでも大変だったようだ。

春、といってもまだ寒い3月の海辺で、僕ともう一人の彼は、オスマントルコ帝国人らしき
立派な服を着せられ、右往左往しながら立っていた。
と、もう一人の彼がTV局の人に呼ばれ、海辺でうつ伏せの格好になっているのを
僕は少し離れたところで見ていた。
すると、ADの人がそばにあったバケツの水を、彼の全身にバシャ〜ッとかけた。
「うわぁ、冷たい!」と叫んでいる彼を見ながら、僕はアハハハ・・・と思わず
笑ってしまった。 まるでコントのシーンみたいに見えたからだ。
だが、その直後、「じゃ、ユナールさん、お願いします」
と僕も呼ばれ、結局自分も、冷たい水をバケツで5杯ぐらいかけられたのだった。

遭難して海辺に流れ着いたヒトの役を、寒さにふるえながら必死に演じて、
やっとOKを頂いたのだが、その後、モーターボートに乗せられて、少し沖に行き、今度は
「海で溺れるところをやってね〜」と言われ、寒さで歯をガチガチ鳴らしながら、海に入り
バシャバシャ暴れながら、何度も「助けて〜」と叫んだ。

幾度も幾度も撮り直して、ようやく終了となって船に上がると、完全に冷え切ってしまった身体に、
冷たく激しい海の風が吹きつける。
「寒い!寒いよ〜!!」と涙声になっている僕たちの傍らで、ADの人が
「あ!ごめん!!」と拝む格好をした。 そして
「じつは・・・バスタオルを海岸に忘れてきちゃった!」と言ったのだ・・。

「想像を超えた試練」の撮影の後、東京へと戻る列車の中で、
僕はアナウンサーの阿部千代さんと、お話ししていた。
とその時、地元のおばちゃまたちの賑やかな団体が近づいてきて、
「一緒に写真とって〜」と言うので、僕が席を外そうとすると、
「お兄ちゃん、どこの国の人?」と一人のおばちゃんに腕を掴まれてしまった。
「・・トルコです」と答えると、「へぇ〜!珍しい国のヒトだねぇ!!」
と盛り上がってしまい、「写真!写真!」と腕を組まれて並ばされ、写真を撮られた。
その後も、意味が全くわからないまま、次々とおばちゃまたちに囲まれて
電車内での撮影会になってしまったのであった。

ところで肝心な阿部千代さんは? 
といえば、少し離れた場所から、困惑している僕を眺めて、クスクス笑っていたのであった。

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